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執筆者の写真TAKAYA FUJITA

2020年2月25日午前10時

更新日:2020年3月6日

父が亡くなった。

2020年2月25日10時。気持ちのいい晴れた日だった。なぜかその瞬間はとても静かな景色に見えた。


未だに現実として受け入れることは難しい。

約1年半の闘病だった。


誰よりも闘って、誰よりも苦しんで、誰よりも悔しかったのは父だったと思う。そして、我々家族も同様の思いだ。家族は第2の癌患者と云われるのも分かる。


この1年半、一時も父の病のことを忘れたことがない。制作中、酒飲んで楽しい時、美味しいもの食べてる時、子供とはしゃいでる時、どんなことがあってもべったりと頭の裏にそのことが張り付いてるようだった。

病気のことは相当に調べた。調べ尽くした。病気というのは癌のこと。癌に関してはかなりの知識を得たつもりだ。助けたいという一心で。何も出来なかった。


5年前相模原から地元群馬に移り、ようやく落ち着いて親孝行?出来るかなと思っていたのにこんなことって。これからお父さんには俺の画家としての歩みや、子供の成長、サーキットで一緒にカーレースしたり、たくさんバーベキューやキャンプしたりと、幼い頃仕事仕事であまり遊べなかった時間を取り戻したかった。


亡くなる24時間前に病院から連絡があり、父が家族を呼んでくれと、看護婦は少し苦しそうだが緊急的なものではないと言っていたが、すぐに母と妹と午前10時に病院へ向かった。

そこには半目で全身呼吸している父の姿があった。一瞬でそれがどんな状況かわかった。

こんな状態になりながらも必死に家族を呼んでくれと言った父の思いと覚悟が伝わった。


嘘だろ。昨夜顔出した時は少し会話したじゃんかよ。


すでに会話はもう出来そうにない状態にあった。男同士だから心配とか悲しいとか言葉にするのってなかなか出来なくて、でもそれなりに伝えていたけど、もっともっと心から素直に出てきた想いを言葉にして伝えておけばよかったと後悔するばかりだ。


モルヒネで痛みを取りながら眠ってる父は必死に全身で呼吸していた。24時間ずっとその姿を見ていた。何だかそこにいるのが父であることに全くリアリティがない。2カ月前までは実家にいたのに。

死ぬことはどういうことか、どうやって死んでいくのか、どれだけ辛いか、苦しいか、それらを父は教えてくれた。父からの最後の教育だったんだ。目を背けたくなる現実に必死に最後まで向かい合った。


呼吸は徐々に浅くなり止まった。その後心拍もゆっくりスピードを落としながら停止した。ドラマや映画で見た心拍計の曲線が直線に変わるやつ。



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葬儀も終わり、初七日も終わり、喪主のプレッシャーからか悲しみはゆっくりと日に日に押し寄せてくる。「喪主やってみた」のタイトルにしようかと思ったけど、違うわ。笑。


何だかよく分からない日記になってしまったが、ひとまずご報告ということで。長々すみません。


ありがとうございました。


父と僕





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2月25日

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